あらら?冒険記 【晩秋のアート編】④


「実家」の朝

実家と何気なく書いたが、実際には「生家」が正しい。「実家」とは

婚姻または養子縁組によって他家にはいった者の、元の家

との意味である。したがって婿に出たわけではない私が「実家」とは明らかにおかしなものであるが、面倒なのでこれでよしとする。

2年ほど前に父が亡くなり、独居となった母だが、80を超え耳が少々遠くなりはしたものの、元気も元気、以前にも増して大騒ぎしている。おかげで安心ではあるもののうるさくてたまらない。片付けものを手伝い愚痴を聞き、挙句に小遣いまで渡さねばならないとなれば、決して快適な場ではないのだが、これは仕方のないことであろう。朝食を摂り、年末の再訪を約束して出発だ。まずは芦花公園へと向かう。

芦花公園駅

ずいぶんと長い間、京王線を使っているが、この駅に降り立つのは初めてだ。世田谷区の最北端に位置する小さな駅である。「瀟洒な住宅街」という感のある、きれいな街並みだ。近隣に芦花公園、正確には「蘆花恒春園」がある事から名付けられたとされる。ちなみにこの公園は文豪 徳富蘆花の旧宅が東京都に寄贈され、

武蔵野の面影を多分に残した公園として一般に公開された。 Wikipedia

との事だ。現在でも徳富邸が見学できるとのよし、一度は訪ねてみなければならない。
こちらから5分ほど歩いた場所が、今回の目的地である。

世田谷文学館

こちらは世田谷に所縁のある作家たち、先に話題の出た徳富蘆花、萩原朔太郎、宇野千代、横溝正史らの自筆原稿や愛用品などが展示されている。1995年に開館で、なかなか凝ったつくりである。ということも東京時代から知ってはいたが、訪れる機会がなく今回が初訪問となった。
環八線のすぐ近くとの事だが、さしたる喧騒をじることもなく、静かな地域に佇んでいる。

ムットーニのからくり箱

まずは常設展示から。様々な作家たちの遺品や業績のパネル展示など、丁寧なつくりでじつによい、雰囲気もよし。そして何より特徴的なものが「ムットーニのからくり箱」である。これは

「ムットーニ」とはアーティストである武藤政彦が作り出した作品のことを指しており、写真や映像では表現できない総合芸術の要素が含まれている。その作品は立体のからくり箱であり、動き・光・音楽など全てが絡み合った小さなストーリーボックスである。 Wikipedia

というものだ。音楽と、詩や文学作品の断片に合わせながらからくり箱が静かに、少しずつ動くのだ。正直なところ、スローでチープでおかしな動きをするのだが、観続けるうちになんとなくムットーニのペースにはまってしまう。世知辛い現代では考えられないほどのスピードが心地よくなってくる。ブラッドベリ「万華鏡」(サイボーグ009の元ネタ)に合わせて回る宇宙飛行士が印象深かった。

筒井康隆展

そして本来の目当てはこちらである。
企画展だから世田谷関連でなくとも良いらしい。数年前にこちらで「日本SF展・SFの国」という企画があり、それが好評だったからこれに発展した、という事らしい。星新一、小松左京なき今、「最後の御三家」の存在は顕彰するにふさわしい。
場内は筒井の事績を表したパネル展示や自筆原稿、写真、これまで刊行されてきた書籍などがあちらこちらに入り組み、時として地と図が反転したようにレイアウトされており、不可思議かつ迫力満点の展示となっていた。
そこここに懐かしいフレーズが頻出する。「狂気の沙汰も金次第」「48億の妄想」「バブリング創世記」など学生時代に貪り読んだ書がそこにある。集英社版「馬は土曜に蒼ざめる」「国境線は遠かった」の柳原良平、筒井康隆を描かせたら天下一品の山藤章二のイラストを観たら不覚にも涙が出てきた。おれも歳をとったものだ。

出会い

筒井康隆との出会いは小学4年時だった。となりのクラスにいたSF好きのIくんと、お互いの本を貸し借りした時が最初と記憶する。私が福島正実「救援隊」、Iくんが「にぎやかな未来」を貸してくれたのだ。ショートショートというジャンルはすでに知っていた。もちろん星新一が主だったのだが、かなりの衝撃を受けたのを覚えている。「静」の星に対する「動」の筒井。徹底的に抑制を重ねてこそ衝撃度が増す星と、最初から最後まで動きまわる筒井。派手好きな若者(小学生だが)が筒井康隆にはまり込むのは当然の事だったかもしれない。筒井康隆がもっとも人気のあった時期で、著作も文庫化されたくさん出回っていた、という事もある。角川文庫のちょっとエッチな表紙の本を、両親に隠しながら貪り読んものだ。フェイバリットは「日本列島七曲り」。ハイジャック事件を茶化したタイトル作は笑いに笑った、3日4日は思い出し笑いしていたと思う。「乱行パーティが始まった」というフレーズは今でもニヤニヤしてしまう。

ひとまずの終わりと旅の終わり

腰痛に関わらず、場内を隅々までくまなく、何度となく往復しているうちに3時間が経過。それでも離れがたく、もう一周しようかなどと考え始めてしまうのも、もっとも見知った仲、一番つきあいの長い作家だからであろう。
42年!Iくんが導いてくれてからかくも永い年月が経過したとは。というか、52歳の自分がいまだに信じられない。あの時はこうだった、あれはこれだった。こんな筈ではなかったが、これは予想以上の結果となった。見慣れたカバー群から想い出が噴出してくる。そんなこんなが面白くやめられないのだが、時間もある、明日もある。この辺にしておこう。筒井先生、まだまだこれからもよろしくお願い申し上げます。

久しぶりの東京旅日記もこの辺にしておこう。いろいろ観ることができて満足だが、いささか詰め込みすぎのきらいがないでもない。滅多に来られないので、ついこうなってしまう貧乏根治というわけだ。でもこれがやめられない止まらない。


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あらら?冒険記 【晩秋のアート編】③


渋谷へ

さて、いよいよ本番である。これが今回のメインイベント。このために10ヶ月前から準備していたのだ。場所は渋谷、東急文化村オーチャードホール。ずいぶん昔からある施設だが、今回が初である。
そもそも、渋谷があまり縁のある場所ではなかった。私が生まれ育った新宿区牛込は盛り場=新宿なのである。それに渋谷にでる交通機関が乏しく、簡単に出ることができないという事情もあった。必然的にごく近隣にいながら、渋谷体験がほとんどない。だから、渋谷は感覚的にアウェイの地なのである。

変貌と大混雑

私が長野に引っ込んでからの20年というもの、東京は大変な変貌を遂げた。特にアウェイの地 渋谷は特に凄まじい変わりように思える。
宮益坂口(父親は死ぬまで「都電の操車場」と呼んでいたが)側は整備され尽くし、ヒカリエの完成など、もうよく分からない。
その関係からか、ただでさえ混雑していた駅前が一層凄まじくなったような気がする。混雑というより「カオス」とでも言うべきか。ラーメン屋で隣り合ったおじさんは
「金曜の朝3:00〜4:00に来てごらん、これくらいの人は平気でいるよ」
ワールドカップやハロウィンの混乱は日常のこと、特に驚くべき話題ではない。と語っていた。なるほど。
腰痛は変わらないが、本番までは今しばらく時間がある。せっかくだからこれを観ていこう。という事でJR渋谷駅と京王井の頭線渋谷駅を結ぶコンコースへ。

岡本太郎「明日の神話」

岡本がメキシコに建設されるホテルのために描いた超大作。長い間行方知れずとなっていたが、紆余曲折の末ここに設置された作品である。原子爆弾が爆発する瞬間を描いており、岡本の頂点とも言われている。このパワーがすごすぎる。
さぁ頃やよし。いざ本番である。

KING CRIMSON

イギリスのロックバンドで、1968年結成。リーダー(と呼ばれることは否定するが)Robert Frippを中心に、何十回にものぼるメンバーチェンジと、幾多にわたる音楽性の変転にも関わらず、クオリティの高い楽曲を50年もの間提供し続けているという、奇跡のような存在である。今回は

Robert Fripp(Guitar)
Jakko Jakszyk(Guitar, Vocals)
Mel Collins(Saxes, Flute)
Tony Levin(Basses, Stick, Backing Vocals)
Pat Mastelotto(Acoustic And Electronic Percussion)
Gavin Harrison(Acoustic And Electronic Percussion)
Jeremy Stacey(Acoustic And Electronic Percussion, Keyboards)
Bill Rieflin(Mellotron, Keyboards, Fairy Dusting)

という8人編成。トリプルドラム!
前々回のダブルトリオも凄かった(音源だけで観てはいないが)が、今回はいったいどうなってしまうのだろうか。ボーカルはJakko Jakszykだから、第1期の曲げ網羅される。ましてベースはTony Levin、ウインドプレイヤーでMel Collinsまでいるのだ。昨年、このメンバーによるLIVE盤が発売されたが、音だけではよく分からない。とくにトリプルドラムが。これは行くしかない、いや行かねばならぬ。Robert Frippだって70を超えたのだ。次があるかどうかも分からない。やはり、行って確認するしかなかろう。抽選、17000円のチケットを手に入れ旅費を貯め、と10ヶ月の血の出るような努力のもと東京に出てきたのだ。これが大したものでなければ、Robert Frippの親父を呪い殺してやる。

オーチャードホール

18:30開場、全席指定であるのにオーチャードホール前はプログレおたくどもの熱気でむんむんとしているが、その割に静かなのが薄気味悪い。そもそもなんで並んでいるのかと思っていたら、開場次第にまずはグッズショップへと直行するのだ。さすが商売人Robert Frippである。ここでしか買えないグッズが山ほど用意されている。市販されていない音源、Tシャツなどなど。ちょっとだけ覗いたのだが、70,000円も使っているものがいた。いやはや。私など2500円のパンフレットですら大熟考の末買ったというのに。というか、お前らそんなにRobert Frippの罠に嵌りたいのか?

LIVEスタート

そんな訳だから、観客の年齢層はおしなべて高い。私より少し上くらいの人が多いようだ。そして開演。Pat Mastelotto、Mel Collinsという順で登場する。セットリストは以下の通り

第1部
01. Hell Hounds of Krim
02. Neurotica
03. Suitable Grounds for the Blues
04. Discipline
05. Indiscipline
06. Cirkus
07. Lizard
08. Islands
09. Radical Action (To Unseat the Hold of Monkey Mind) (partial)
10. Radical Action III
11. Meltdown
12. Radical Action II
13. Level Five

第2部
14. Devil Dogs of Tessellation Row
15. Fallen Angel
16. Red
17. Moonchild
18. Bass, guitar and piano cadenzas
19. The Court of the Crimson King
20. Easy Money
21. Larks’ Tongues in Aspic, Part Two
—encore—
22. Starless

第1部は第2期を除く全期間を満遍なく、といった感じだ。叫んだり立ち上がったりする者がいないのかとてもよい。そもそも音が抑えられているので、じつに聴き心地がよい。高齢者向きのロック・コンサートというわけである。

曲が始まる際に小さな声で「うお」と反応するのが面白い。まぁ私も同様なのだが、会場全体が同じことをすると結構な大きさで聞こえる。01〜03とウォーミングアップのような展開からの04、05はすごい。おおおお!「Discipline」と「Indiscipline」が続けざまなんて。そして07はみな一瞬反応が遅れる。え?「Lizard」?まさか「Prince Rupert Awakes」が生で聴けるなんて。もちろんJon AndersonでもGordon Haskellでもないが、Jakko Jakszykが頑張ってくれたからよい。長生きはするものだ。そして12、13というノリのよい曲で第1部終了。

第2部

20分の休憩を挟み第2部のスタート。14はLIVE盤「Radical Action to Unseat the Hold of Monkey Mind」の収録曲で、たぶんインプロヴィゼーション。そして15から怒涛のヒットソングを、ほぼ完コピ(とは言わないか)。Mel Collinsというマルチプレイヤーがいるから、原曲に限りなく近い演奏となる。あゝ幸せだ。「Fallen Angel」「Red」ときて「Moonchild」となったら隣の大将が泣いていた。何を大げさな、と思っていたら「The Court of the Crimson King」のリフレインで不覚にも私も泣いてしまった。そして「Easy Money」「Larks’ Tongues in Aspic, Part Two」という黄金パターンを経て第2部終了。アンコールは「Starless」これで盛り上がらいわけがないではないか。

プレイヤーたち

予想通りトリプルドラムは「体感してナンボ」のものであった。Pat Mastelotto、Gavin Harrison、Jeremy Staceyのドラム合戦はど迫力であった。各々がソロを回していく様はロックの楽しさ、面白さの体現であった。Jeremy Staceyはドラムだけでなくキーボード(というよりピアノ)の名手で、「Lizard」の名演はかれあってもものだ。Mel Collinsも上手くて素晴らしくて。Tony Levinはもっとも観たかったプレイヤーで「うねるベース」を体感出来たのがとても嬉しかった。Jakko Jakszykは少し窮屈そうな感じ。ボーカルが少ないのはともかく、もう少しギターソロを取らせてやろーよお舅さまRobert Fripp翁。
なんでそんな事を言うかといえば、もっとも目立っていたのがリーダーRobert Frippであったからだ。ソロといいリズムといい、あのガギガギした音で弾きまくる弾けまくる!これが目当てだからまったく文句はないのだが、どうせなら「Fracture」を聴きたかった。いや、まだまだあるぞ。「Night Watch」の冒頭部が再現できるのか?「Cadence and Cascade」の繊細かつ不安定な音もよい。「Larks’ Tongues in Aspic, Part One」も聴きたい、いやオレはそもそも「21st Century Schizoid Man」が聴きたかったのではないか?
「聴きにくればいいじゃないか」
Robert Fripp翁の声が聞こえる
「セットリストは毎晩違うのだよ。チケットも余っているよ」
とほくそ笑んでいるかのようだ。13ヶ所ツアー?17000円?どーって事はない。嫁娘を叩きうれば済む事だ。ほんの少し、借金する事のどこが悪いのだ。

…などと、まじめに考え始めてしまう自分が怖い。ここはほどほど、分をわきまえよう。

という事でLIVE終了。ほやほやした気分になりながら、実家を目指す。


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あらら?冒険記 【晩秋のアート編】②


国立博物館

さて、エドヴァルド・ムンクを堪能、「想い」を過剰なほど摂取し破裂しそうなアタマをぶら下げて行ったのは国立博物館である。
子どもの頃、父に伴われ幾度となく通った場所である。40年前は、説明板などほとんどなく、ショーケースに入れられた展示物には小さく
「◯◯遺跡出土、◯世紀頃(推定)」
などと記されているだけの、誠に素っ気ないというか無愛想な空間であったと思う。現在はまったく違うが。こちらで観せてもらうのが

「マルセル・デュシャンと日本美術」

マルセル・デュシャン(1887〜1968)はフランス生まれのアーティストで、20世紀美術に「決定的な影響」を与えたとされる人物である。のだが、果たして彼を「アーティスト」とカテゴライズしてよいものか?率直なところ、私はこの人はアーティストというより理論家、あるいはアジテーター、もっと突き詰めれば「変態=人たらし」だと思っている。

変態=人たらし

彼の活動のごく初期に何点かの絵画(キュビズムに影響された作品で、これがまたよい)を発表したが、1913年以降は実作をほとんど行なわず、「レディメイド」という大量生産、かつ市販されている工業製品を組み合わせ、あるいはそのまま提示する事で「アート」だと主張した。
…というのはよいが、こういう存在ってアーティストなの?何をもってして「アート」なのかは議論の分かれるところであろうが、
「アーティストが選択し、これが『アート』だと宣言」
したものがそれだ、というのはかなり乱暴なことではないか。しかし、みなになんとなく納得させてしまうところがアジテーター。でも脇で「泉」や「瓶乾燥機」を見ながら、あゝすげ〜とかなんとか言っているヤツらを横目にニヤニヤしていた。それがデュシャンの本当の姿だったのではないか。私はそのように怪しくもいかがわしい存在が、なんとなく好きなのだ。あゝ人はそれを「もの好き」という。

「自転車の車輪」「瓶乾燥機」

回顧展だけに、彼の代表作が多く展示されている。まずは「自転車の車輪」。近くのデパートで買ってきた自転車の車輪とイスを組み合わせただけの、なんという事のないもの。まだこちらは「加工」という行程があるから納得出来なくはないが、「瓶乾燥機」に至ってはそのまま提示されているだけだ。

「泉」

これ有名な作品(?)。男性用便器を横向きに置いて、サインをしただけのもの。R.MUTTと偽名なのかというと、デュシャンはこれを出品した展覧会の審査員だったのだとか。立場上、本名ではない方がよい、として偽名で出したのだが、物の見事に落選したそうだ。

「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」

幅1.7m×高2.7mに及ぶ2枚のガラス板で構成された作品。デュシャンが1915年から1923年までの8年にかけて制作したが、未完のまま放置されたもの。デュシャンはこれ以降、ほとんど製作を行っていない。ここにあるのは、1980年代に東京芸大のメンバーによって製作されたレプリカだが、フィラデルフィア美術館の現物は大きくひび割れている。1920年代、搬出入の事故により割れてしまったが、デュシャンの
「それもまたアートの一環」
のひとことでそのままにされている、真面目なのかふざけているのか判別し兼ねる作品だ。

「1.水の落下、2.照明用ガス、が与えられたとせよ」

「遺作」もしくは「滝とランプ」と通称される場合もある。実物ではなく「映像展示」である。何枚かの画像をドキュメンタリー風に編集して、製作の背景や、デュシャンの狙いを説明するという仕掛けだが、少々のこと残念。とはいえ、さすがに国立博物館では無理か。理由は「デュシャン 遺作」でググってみて下さい。

まとめ

ということでマルセル・デュシャン、どこまで本気なのかふざけているだけなのか、まったく判断がつかない。ただ、彼は人間として結構面白いヤツだったのでは、と思うのだ。なんのかんのと言われながら、「あいつのやる事だから」と許されてしまうような、気のいいやつ、可愛げのあるオトコ。彼のニヤニヤ顔のポートレイトを眺めながら、そんな事を考えていた。

国立博物館が終わったから次へ!
…という気力以前に歩きすぎのため持病である腰痛が悪化。単なる運動不足ともいうが。ロビーにソファがあったのでひと休み。あまりの心地よさについ30分ほど寝てしまう。国立博物館で昼寝するヤツはなかなかいるまい。さすがにイビキまではかいていなかったと思う。腰痛が少し回復したところで、傍らをみるとなかなかよさげな展示があったので一巡り。

常設展「日本の考古」

日本各地で出土された品々の展示である。旧石器時代から江戸時代くらいまでを、概要的に陳列されている。とはいえさすが国立博物館である。概要だけでもかなりな数となる。巨大な銅鐸、埴輪などが所狭しとならんでいる。鶏の埴輪など初めて観た。

一番はこれ。いい顔してるでしょう。

ということで国立博物館見学は終了。「日本考古学 」だけを見学に再来せねばならぬ。


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あらら?冒険記 【晩秋のアート編】①


TOKYOへ

2日間続けて東京に行ってきた。
B型人間は突如思いつき行動に、というのが常なのだが今回は半年も前からの計画。われながらとても変な気がするのだが。まぁ計画といっても用向きは一件のみで、あとはギリギリになってから予定したのでいつもとあまり変わりはないか。詳細は後述するとして、潔く出発である。

AM5:30 未明の出発

なんでまたこんな時間に?とは皆から言われたが、東京で出来るだけ長く過ごしたいのだ。それと、すっかり様変わりしてしまった東京で何が起こるか分からない、なんぞという不安もある。おまえは東京生まれで31まで彼の地で過ごしたのであろ?とのツッコミを頂きそうだが、20年も経過すれば、土地勘などまるで消え失せてしまっている。まして今回はもともと得手ではない街 渋谷なのである。ここ数年でもっとも変わり果てた街SHIBUYAなのである。やはり行動時間は多い方がよい。と、田舎者丸出しでお登りさんと相成る。

旅のテーマ

という事で冒険は始まったわけだが、今回は仕事でもない。実家関係の用向きではない。純粋に自分の趣味・好みでの行動なのである。家族も伴わず、じつにフリーでよい塩梅の旅は嬉しくてたまらない。そうなのだ、自由なのだ。これを多としてたっぷり楽しもうではないか。そのためには効率のよい行動が必要であろう。行動計画にはまずテーマ。これをしっかり決めていこう。様々な試行錯誤と優柔不断、そして果てしのない逡巡の末決定したのが
「晩秋のアート」
である。本来の用向きがアート関係という事もある。調べてみたらさすが東京、興味深い展覧会がある。では秋深いTOKYOのアート巡りとしよう。

上野恩賜公園

アートといえば上野公園、というのはシンプルすぎていかがなものか。と思わなくもないのだが、世界遺産 国立西洋美術館もある、国立博物館もある、東京都美術館だってある。だから「上野=アート」と言い切っても文句はあるまい。それに観たい展覧会がふたつもあるのだ。だからこれでよいのだ。

東京都美術館

こちらに伺うのは30年ぶりくらいだろうか。建築学生の時代、前川國男の代表作に触れてみよう。という事だったのだが、物の見事に忘れ果てていた。こんな内向的な計画だったのか。
場所は公園のもっとも北側の一画なのだが、大噴水広場と動物園に挟まれた、喧騒の谷間に位置するといえる。前川は、それを避けるために敷地外周に沿って施設群を設け、中庭を作る。そこから地下へアプローチさせることで、内部・外部を隔絶させるというなかなか巧みなプランニングである。見た目の面白みはないが。この辺りが藤森照信のいう「前川國男はプランを取り立面を捨てた」という事なのだろう。こちらで観るのが

「ムンク展 共鳴する魂の叫び」

エドヴァルド・ムンク(1863〜1944)はノルウェーを代表する画家で、「叫び」が有名である。というかそれしか知らなかったのだが、これがすごい作家だったのだ。
幼少期にあった母そして姉との死別。父との葛藤、安定しない自らの精神状態、破れ果てた初恋、恋人との諍いが発展した発砲事件など、彼にふりかかる事件を通して培われていくテーマ「息づき、感じ、苦しみ、愛する、生き生きとした人間を描く」すなわち生命そのものこだわって行く姿が編年式に展示される。

「病める子」「接吻」「吸血鬼」そして…

夭逝した母、姉をモチーフにしたと言われる「病める子」は不覚にも涙してしまう。白く正気のない少女の横顔は、死への不安と諦念とがないまぜになったなんとも言えない表情である。

「生命のフリーズ」と題された連作シリーズもある。あるモチーフを少しずつ解釈を変えながら、何作も描き続ける、というものだ。

「接吻」というシリーズがある。

最初の作品は、窓辺で情熱的に抱き合い、接吻する男女が写実で描かれるが、作を重ねるうちに男女は溶け合うように一体化していく。

「吸血鬼」は寝ている男の血を吸おうとしている女吸血鬼が次第に変化してゆく。

融合するのは同じだが、あるときは部屋の中、ある時は海辺、ある時は生命溢れる森の中と変わっていく。何やらメタフィクションのような展開が面白い。後世のガルシア・マルケスやフィリップ・K・ディックあるいは筒井康隆に影響を与えたのではないか。そんな気がする。そして「叫び」だ。

「叫び」

妹を見舞うため訪れたエーケベルグの町。そこで見た、血のように赤く染まった夕陽に恐れ慄き、そして叫び声を上げるムンクが描かれる。不定形に不気味に重なり合う形、色彩。極端にデフォルメされた「叫ぶムンク」。どこからどう見ても凄まじいインパクトである。一目みただけで釘付けになってしまう。もっとゆっくり観ていたかった。大混雑で叶わなかったのが残念でならない。

ムンクの生涯

生涯を芸術に捧げ、独身を通したムンク。そのために恋人から撃たれ左手の中指を失ったりする。晩年、ノルウェーの国民的作家として認められるも、ナチスドイツの台頭により「退廃的」として批判されるようになり、完全な隠遁生活に入る。そして孤独な死を迎えることとなる。彼の生涯は栄光に満ちたものであったか、あるいは悲劇的であったかは分からない。しかし、誰よりも「生き切った」といえよう。じつに見事な企画であった。素晴らしかった。でも、もう少し空いていればもっとよかったのだが。さすが東京だ、平日でも美術館が混雑するなんて。


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あらら?冒険記 大腸鏡編


健康診断とその結果

先々月の健康診断の結果は、想像よりもよいものであったといえる。…よい、という表現はやや微妙なものである事は素直に認めよう。喫緊の、あるいは至急の治療や投薬が必要ないだけで、メタボではあるし、現在の通院と治療を忘れずしっかり行え。歳も歳だから、暴飲暴食は避けよ。との事であった。

ただ一つ、「要検査」とされたものがある。
便潜血+
要するに、大便に血液が混ざっているよ。大腸に何か、疾患があるかもしれないよ。そういう事だ。
何かがあるかもしれない。

そんな事は、年齢からしてあり得ることだろう。いつまでも若くはない。臓器も弱ってきているだろう、先に言った通り、メタボでもある。むしろ、「何か」があって当たり前なのかもしれない。ま、あったところで、その場で対処するより他にない。深刻な事であれば、それはそれで興味がなくもない。いずれにせよ、長く放置しておいても意味がないし、面白くもない、検査しに行くか。いざ、冒険の始まりである。

大腸鏡検査

検査、といってもいきなり病院へ行き
「はい!お願いします!」
という訳にはいかない。まずは主治医の基へ相談にいき、検査を行う、行わないの判断をしてもらう。
「ま、やってもらった方がいいね」
というお言葉を頂き検査決定。検査とは「大腸鏡検査」である。体内にぐりぐりと機械を差し込み、中を覗くという、一見乱暴にみえるが、現代的に洗練された手法なのだという。疾患があれば、その場で試験体を採取する事も出来れば、手術も可能である。この技術が進化したおかげで、開腹手術が劇的に減少、リスクも少なく、予後もさしたる心配はいらない。言わば、医療に革命をもたらした。といっても過言ではない技術である。

しかし、今回の検査は大腸鏡である。はなはだ尾籠な事で恐縮だが、お尻から中へ、という工程を経る以上、検査機関は限られてしまう。主治医は
胃カメラの名手なのだが、こればかりは仕方ない。連携している総合病院を紹介してもらい、そちらへと赴くこととなる。

地方独立行政法人 長野市民病院

こちらは、北信地区の拠点病院となっており、30診療科400床という、大々的な総合病院である。
7月の終わりに第1回目の受診。といって、実質的に予約だけなのだが、検査をしてくれる先生と行会い、準備などをきかされる。

前日はなるべく繊維質の多い食品、例えば生野菜など残渣となる可能性のあるものは出来るだけ避けて、20:00までに夕食を終え、下剤を飲むこと。その後は検査終了まで、水・お茶以外のものは一切とってはならぬ、というお達しである。
と、ここまで大袈裟に書いたが、じつは大腸鏡検査はこれで4回目なのである。しかもすべて市民病院でやっている。勝手知ったるものだ。

検査までの段取り

マニュアル通り、朝食は抜いて摂取できるものは水もしくはお茶のみ。まことに侘しい朝の時をすごし、10:00に市民病院到着。10:30でよいと言われていたのだが、われながら気早なことである。時間があると、ついレストランを覗いてしまうのは仕方のないことだ。和風モーニング、焼き魚がこれほど小さければ、腹の足しにならない。しかし食べたい、おれは腹がへっているのだ。
「コーヒーor紅茶 お替り自由」
という文言から目が離れない。あゝおれは腹がへっているのだ。

内視鏡検査室で受付完了後、直ちに儀式が始まる。すなわち腸管洗浄という、キツいキツい通過儀礼があるのだ。オリビア・ハッセーにジョン・レノンをふりかけ、マーク・レスター風味をつけ加え、数回咀嚼したような看護師さんが丁寧に教えてくれる。想像できない?ならばそれでよいではないか。おれは腹がへっているのだ。

オリビア看護師と儀式の始まり

腸管洗浄剤モビプレップ、誠に妙な名前の薬だが、これを

モビプレップを250ml、15分かけて飲む
モビプレップを250ml、15分かけて飲む
水を250ml、15分かけて飲む

これを1クールとして、3回繰り返す。以前のものとは変わったようだ。少し量が減ったか。
トータル2.25ℓ。頑張ればひと息で、という事もできるがオリビア看護師にダメ出しされる。では15分おきに250mlをすいーっと。というのもダメ。刺激が強すぎて腸管の内圧が高まり、穿孔の可能性があるとの事だ。
15分かけてゆっくりゆっくりいけ
という。なかなか曖昧なことで、毎度困惑するのであるが、なんとかしてみよう。

いろいろ考えた結果、250mlを80ml、80ml、90mlに分けて5分おきに飲み干す事にする。この辺は、カップについた目盛りを見ながら、かなり目分量ではあるが、それは勘弁してもらう。15分間に250ml飲めばよいだろう。

モビプレップ

それにしてもモビプレップはまずい。
スポーツ飲料に塩を足した、というイメージは以前のものと変わらない。味わいがはっきりした分、口中に残る風味がなんとも言えないのだ。不自然な甘さと塩加減なのである。良薬口に苦し、というがかようにへんちくりんな名の薬はより一層、美味い訳がない。

2時間と少しをかけて飲み干す。その間、7回トイレへの出入りを繰り返す。水様便というが、昨夜から今朝にかけて出てしまっているので、ほとんど色つきの水のようなものである。残渣のあるリアルゴールド、という感じか。
上手くしたもので、3クール目が終わったくらいには看護師さんから合格を宣告される。やれやれ。右隣にいる品の良い年配のおばさんは、飲みきれないといって半泣き状態だ。とにかく飲め、飲み終わったところで確認する、と言われ呆然としている。左隣のジェントルマンは、飲み終わったのに出ない、といって新しくモビプレップが処方された。どちらも気の毒な事だ。

儀式の終わりと読書タイム

処置は15:30からの17:00までの間に行われる。
と聞き、心折れへなへなとその場に崩れ落ちそうになる。現在12:45、最低でも2時間待ちか。仕方ない、図書室で待つことにする。途中、コンビニに立ち寄り冷たい煎茶を購入。併設のレストランメニューにくぎ付けとなってしまうのも致し方のないことだ。

「まぐろとしらすの紅白二色丼」
「チキンと茄子のトマトソーススパゲティ」
「豚肉のコチュジャン炒め」
あゝ美味そうだ。おれは腹がへっているのだ。
図書室とは、玄関ロビーのすぐ脇に設置されているコーナーで、一般書籍やマンガが用意されている。入院患者はもちろん、私のように検査や診察待ちの人も利用できるようになっている。さて何を読むか。

「クッキングパパ」

うえやまとち原作のマンガで、コミックモーニング誌で、1985年から連載されている、長寿作品である。主人公 荒岩一味が、いかつい体躯と繊細な技倆とで料理を作りまくる、というお話だ。あゝ美味そうだ。おれは腹がへっているのだ。

コンビニコミック版だから、連載順ではなくばらばらに収録されている。だから絵の巧拙、構成の違いなどがよく分かる。とくに初期のものは、コミックモーニング創刊時のコンセプト
「20歳代後半、独身男子の処世術」
を踏襲したもので、じつに微笑ましい。「課長 島耕作」だって、連載開始時はサラリーマンの悲哀を描いた、情けないオトコを描いたマンガだったのだ。

内視鏡室と再待機

15:30となったので、内視鏡検査室に戻る。…が、なかなか声がかからない。20分ほどして、先ほどのオリビア看護師から
「最初の患者さんに手間取ってしまい、後が押してしまっている。大丈夫ですか?
大丈夫もへったくれもない。では明日に変えよう、などという事は出来ようはずもない。待つしかないではないか。
そして16:30、17:30が過ぎ、18:00ちょっと前、いい加減キレそうになるタイミングで呼ばれる。検査着に着替えスタンバイOK。それでも検査室入りしたのは18:30くらいだったか。

麻酔と検査と漱石と

検査中は麻酔をする。
という事は、当初から申告していた事である。10年ほど前の第1回検査時に、大変な思いをしたので、以来麻酔状態でやってもらう事にしているのだが、看護師(オリビアとは違う人)から
麻酔、やめませんか?
と言われる。ただでさえ遅くなっているのに、これから麻酔では一層のこと時間がかかってしまうからだ。
いいえ、麻酔はお願いします
遅くなったのはあなた方の都合、苦しいのは私である。という事で注射1本、軽い痛覚とともにコロンと意識を失う。

強いて寝返りを右に打とうとした余と、枕元の金盥に鮮血を認めた余とは、一分の隙もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の髪毛を挟む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。ほど経て妻から、そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのですと聞いた折は全く驚いた。

とは夏目漱石「思い出す事など」から、いわゆる「修善寺の大患」が描かれた場面である。無論、かほどに大袈裟なことはないが、気分はこれとまったく同様である。

「あらら?さん」
と呼びかけられたのは、注射の後、ほんの一瞬の間のことと思われたが、実時間では20分ほど経過していた。
1時間ほど様子を見る。
と言われたが、もう目は覚めちゃってるし、少しふらつくけど動けるよ、と返したのだが、15分だけ横になっていろ、と言われる。実際には10分ほどだと思うが、放免され着替えることとなる。

検査終了

「先生が見えるまでしばらくお待ち下さい」
待つのはよいが、おれは腹がへっているのだ。コンビニでパンのひとつも食べさせてくれと懇願し、許可が出たのでいそいそ出かける。
「オムカツサンド」
オムレツにパン粉をつけ、揚げたものを具としたサンドイッチだ。コカ・コーラゼロとともに愛おしく頂く。あゝ美味い、しみじみ美味い。とかなんとか言いつつも、食べ尽くしたのは、ものの1分ちょっとであろう。もうひとつ行くかな?と検討を始めた時に、お声がかかる。

言い忘れていたが、担当医は女性であった。色白にしたウーピー・ゴールドバーグを可愛くしたような、というとまた混乱されそうだが、適当に想像してもらいたい。

画像をひと通り見せてもらった上で
何もありませんでした
と、あっけらかんと言われ終了。一ヶ所、ポリープ様のものがなくもないが、色合いやサイズからして良性のものでしょう。襞の反対側、見えない部分に腫瘍がある、なんてこともなくはないのだが、たぶん大丈夫でしょう。潜血も、どこかが擦れて出血でもしたんじゃないですか?との事であった。ウーピー先生、真面目そうだが、シャレもききそうだったので、気の利いたセリフのひとつも言ってやろうかとも思ったが、疲労困憊状態だからか、思いつきもしなかったので、そそくさと帰る。

会計、そして冒険の終わり

時刻は19:30。会計が終わってしまっている、という事なので救急コーナーに回り支払いをする。
7100円
3割負担だから、実際はおよそ23000円の検査である。けっこうな金額で、なおかつ大変な労苦を伴うものだったが、結果は何もなし。
…いや、無くて結構なのだ。前日から起算して23時間30分の冒険は、まことにあっけなく終わりを告げたのだった。

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わが家のつばめ【旅立ち編】


つばめがわが家に巣を作ったのは昨年のことだ。やけにつばめが行き交うな、と思っていたら、玄関の上に、いつの間にか出来ていた。人間のいる場がもっとも安全、ということを本能的に知っているのだろう。

という事で、早くヒナが生まれないかと、なんとなくうきうきと待っていたのだが、いつの間にかもぬけの殻となっていた。ほぼ完成し、あとは玉子を産むだけ、というタイミングだったのに。何があったかは分からないが、先方にも都合というものがあるだろう。

今年はどうか
とくに意識していたつもりはなかったのだが、つばめの姿を見るにつけ、うちにもまたやって来ないかと、なんとなく考えていたら、来てくれた。この度は、しっかり産卵、孵化してくれ三羽のヒナが、ピーピーと可愛い声を聞かせてくれた。

赤ん坊を可愛く感ずるのは、人間もつばめも一緒である。親鳥がせっせとエサを運び、元気に育つ様を見ているのが楽しくて仕方なかった。

ある時、仕事をしていると家内から連絡が入った。ヒナたちが飛ぶ練習をしているという。まだ20日程度しか経過していない筈だが。よその子は育ちが早いものだ。

帰宅すると、家内が動画を撮っていた。
三羽のうち、二羽はあっという間に飛べるよになり、どこぞへと行ってしまったそうだが、一羽どんくさいのがいてなかなか飛べない。しばらくすると、親が迎えに来て、出発を促したりしていたという。このあたり、つばめも人も変わらない。

それでも飛べないので、隅に小さくなっていた。家内が心配して、うちで面倒みるかと言いだしたが、それは押し留めた。彼らとわれわれでは住む世界が違うのだ。これで死んでしまうなら仕方がないことなのだ。

ひと晩たって、かの場所を覗いたらいなくなっていた。死骸もない、猫が立ち寄る場所でもないので、おそらく飛んでいったのであろう。ひとまずよかった。また来年も来てくれるかな。

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千曲市の岡本太郎


岡本太郎ほど人に愛されたアーティストは他にいないだろう。この人気は戦後わりと早い段階からだったようだ。一平・かの子の息子、という話題性もあったろうが、「気さくな変人」といったイメージが定着したからでもあろう。

その太郎さんだが、わが長野県ともずいぶん深いつながりがあった、ということはよく知られている。諏訪の「万治の石仏」が有名になったのは、彼がその魅力を語ったからだし、松川村役場には大きなレリーフが飾られている。野沢温泉には多くの彫刻がある。そもそも野沢温泉のロゴは岡本デザインだ。

まぁ、これは長野県に限らず、あちらこちらに作品が残されているようだ。「気さくな変人」の上に、大変な多作家だったということでもある。

岡本作品が千曲市にもある、という事を知ったのは、つい一週間ほど前である。知人宅にお邪魔した際に、お話を伺ったのだ。

アーティストでもあるその知人が
「あれは凄いから、一度みた方がいいよ」
と連れて行ってくれたのは、戸倉町のはずれ、千曲川の堤防道路沿いにある、小さな松林にポツンと置かれていた。

「無籍動物 岡本太郎」
という小さく、傾いた看板のみで説明板などまったくない。先程は「ポツンと置かれ」と書いたが、それよりも「無造作に放置されている」という表現が妥当かもしれない。

元はと言えば、かつてこの地にあった「戸倉上山田ヘルスセンター」という遊園地、現在でいうアミューズメントパークのために制作されたものだという。1959年に大小2体作られ、現在残されているのは小さな方である。こちらは大を制作するためのモデルで、高さ・幅ともに1.4mほどのサイズである。

ちなみに、戸倉上山田ヘルスセンターのシンボルとして作られた「大」の方は高さ4メートル、幅5メートルという途方もないスケールで、かの施設のシンボルとして扱われ、箸袋や包装紙、土産のまんじゅうの焼き印などにもあしらわれていたという。

ただ、かの施設は開園後1年半ほどで経営不振に陥り1962年ごろ閉園となった。その際に「大」は取り壊されたと言われているが、実際のところは不明であるとのことだ。一説には松代群発地震の揺れで倒壊したとも言われているが、正確なことは不明である。

そして、残された「小」は無造作に放置されている。なくなってしまったものは仕方ないが、せめてこちらはきちんと保存できないものか。このままでは朽ち果てるがままである。貴重な作品だと思うのだが。


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S先生の話④


「森将軍塚古墳」
全長約100mにものぼる、長野県下最大級の前方後円墳。おそらく4世紀末、古墳時代前半に築造、信濃(科野)を統一した王の墓と推定される古墳で、千曲市という、長野市中心部から20㎞ほど離れた南部に隣接した地にある。

千曲市は、北国街道の善光寺平への入り口にあたる。善光寺平は高い山々に囲まれ、他にさしたる街道をもたないため、この千曲市はまさしく交通の要衝なのである。ここを抑えられるか否かが、北信地域統治が決定づけられる最重要ポイントといえる。川中島の戦いも、この地のパワーバランスが崩れたのが原因といっても過言ではない。

かような地を大王の墓所とするのは、ごく自然のことだが、この古墳の特異なのは設定された場所である。平坦部ではなく、200mほど山上の切り立った尾根を利用して築造されている。

何故、現代でも施工困難な場所に延べ人員およそ55000人、10年もの歳月をかけて作り上げたのか。それは墳上に立てば一目瞭然である。そこは善光寺平を一望する、もっとも最良の場なのだ。
自ら平定、わが手で築きあげたクニを睥睨し国民に、いやわが子たちに

I am here
I was here

私はここをいる。
みなのもの安んじて栄えよ殖やせよ。

という想いをかたちとしたものであると確信する。

……大げさに書いている。と、お感じの貴兄はせひ実物をご覧あれ。間違いなく同意していただけると思う。

偉大なる恩師 S先生はその後どうされているだろうか。ここ10年以上、連絡を取っていないことに気がついた。まったくロクデナシな教え子である。


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S先生の話③


S先生のある時の言葉も、その衝撃度から忘れることができない。
安藤忠雄に関する講義での一節と記憶している。

デザインは記憶である

そもそもデザインとはどのような行為であるのか。表現することは人にとってどのような意味があるのか?
例えば文学表現。コミュニケーションのためだけの伝達手段さえあればよいのだから、苦労して美辞麗句を紡ぐことは必要はない。
例えば絵画。伝達手段だけであれば、単純な記号があればよい。
われわれが学んでいる建築も同じことだ。屋根と壁がキチンとあり、雨風を防ぐことができればなんらの問題はない。言わば「無駄」なことにすべてをかけつつあるのだ。
ではなぜ、われわれは苦労して手間ひまかけてデザインを志すのか。それは

I am here
I was here

私はここにいる。ここにいた。私の事跡を忘れるな。私の気持ちを忘れるな。他ならぬ私という人間のいたことを忘れるな。
だから、人間は他者と違うことを目指すのだ。ゆえに

デザインとは生身の人間に備えられた記録媒体である

こういう授業だからやめられないとまらない。

「形状は記憶である」
「デザインとは生身の人間に備えられた記録媒体である」

という言葉に衝撃と感銘を受けながらも、実際に腑に落ちたのはずいぶん時間が経過してからだ。結婚して子どもが生まれ、家庭として格好がついた頃からであると思う。家内はともかく、絶対的な弱者である子どもたちを前にしたとき。あどけない表情を浮かべまとわりつく子どもたちを抱いたとき、この子たちをどのように守り、何を残してやれるのか。と真剣に考えたものだ。
……とかなんとか、カッコつけてはいるものの辛うじて扶養しているだけなのが我ながら情けない。

S先生の話②


千利休が確立した茶道とは、自らのすべてをさらけ出しあるがまま精一杯を表現することを「もてなし」とする。茶室の材料はすべて自邸の庭で採れたものを、出来るだけ加工せずに使う。自然の中にポンと置いただけのもの。数寄屋とは本来はすべてを見せ切った「透き屋」なのだ。
千利休のすごさはそれだけではない。音すらも支配した。
自然界に満ちた音。そよぐ風、清水のせせらぎ、木々や葉のふれあい動物たちの鳴き声。そのささやかな音たちの狭間に鹿おどしの「こーん」という人為的な音を挿入することで人間の持つ五感〜視覚、触覚、味覚、嗅覚そして聴覚のすべてをも制御=デザインしきったのだという。

「だから千利休って人物は茶人と捉えるより、建築家、空間デザイナーとして理解するべきなんだよ。それも大天才のね」
という言葉を発した時の、彼のドヤ顔(もちろんこんな言葉もなかった)を30年たった現在でも鮮明に覚えている。

このS先生だが、学生運動崩れだけあって言動がユニークかつ過激な傾向にあった。

「戦後40年もの間の米帝支配によって培われた自民党一党独裁体制を打破するためには……」

なんて話がボコボコ出てくる。
こちらもわざとそのての話をふるものだから、授業そっちのけで脱線話が続く。ま、そちらの方が圧倒的に面白いのだから仕方ない。

「オレはマルキシズムが大嫌い。そもそも人間の思想や行動が統一的に理論づけられるなんてあり得るわけがない」

などと言っているそばから

「古今東西、老若男女。ひとのやること考えることは変わらない。だからデザインを考える前に世の中の常識を身につけろ」

……おっさん、なんか矛盾してないか?嫌いだ嫌いだなんて言いながら、マルキシストど真ん中じゃないか?と、からかったら、小僧ナメんじゃねーよとアタマこずかれたことがある。もちろんお互い洒落ではあったが。


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S先生の話①


建設業を生業としている。
ひと様の家を作ったり直したして、いつの間にか30年も経ってしまった。

業界の垢に染まり、すっかりすれからしとなってしまったが、これでも若く初々しい学生時代があったのだ。
……あえて言うまでもなく、だれでも当たり前のことなのだが。東京新宿の片隅にある、今は廃校となってしまった夜間制専門学校に2年半通っていた。
昼間、働きながら夜学というと、「苦学生」などと、ほどよく受けとってくれる方がいるがさにあらず。本人は至って陽気に楽しく通学していたものだ。技術系学科だから、課題さえ提出していれば進級させてもらえる、だから座学は適当に、実技は真面目に、という方針で通学していた。いや、学校いくよりおもいで横丁で飲んでいる時間の方が長かったのではないか。

実技以外で真面目に通っていた授業で、〈造形〉というのがあった。
スケッチやデッサンを通して形や記号の持つ意味を考察する講義で、一聴して哲学的というか、不可思議なというもの。これが好きで、一度も休むこともなく参加していた。なぜそのような授業が好きだったかというと、担当講師の言葉がじつに刺激的だったからである。

「S先生」という痩身でそこそこの美男子の方だった。現在の言葉で言えば「イケメン」であろう。昭和23年生まれの団塊世代で学生運動にのめり込んだ挙句、大学をドロップアウト。それでも建築が好きでデザインも出来たから、先輩の設計事務所に潜り込んで仕事しているうちにそこそこお客さんもついて独立してしまったという変わり種である。それでもさんざんいろいろなことをしてきただけあって、知識がものすごい。

ある時、そのS先生が質問をひとつ投げかけられた

「鹿おどしとはどのようなものか」

茶室の水汲み場にある、竹で出来たあれのことである。そんなもの面と向かって答えられるものなど1人もいるわけもない。S先生曰く

あれは自然の中に人間が挿入した最低限の〈作為〉である


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長野市の城【栗田城】


この史跡はJR長野駅から徒歩で20分ほどの、住宅街のただ中にある。
記録では南北朝の時代あたりから関が原直前くらいまで、この地を統治した栗田氏の居館があったとのことだ。現在は水内総社 日吉大神宮という神社になっている。

栗田氏とは信濃村上氏の流れだという。
信濃村上氏とは河内源氏が信州に定着した末裔で、武田や川中島の合戦マニアの方々には村上義清という名前を御存じかもしれない。あの武将が「出来ない人物」であればもう少し歴史が変わっていたのかもしれない。……川中島の合戦があろうがなかろうが、歴史的にさしたる影響はない、という意地悪な意見は別としてだが。

この栗田氏だが、11世紀ごろ顕光寺(戸隠神社)の別当になり、そして

“鎌倉時代から室町時代までは善光寺(園城寺系寺門派)別当職をも世襲し、犬猿の関係にあった筈の両社を支配下に置く有力国人となる”Wikipedia

ということだ。当時北信地域一帯を統治した一族であったともいわれている。
川中島の合戦では武田方(善光寺・里栗田)と上杉方(戸隠・山栗田)に分裂。今川義元の仲介で和睦した後、栗田氏は善光寺本尊を持ち出し、甲斐善光寺へ移った。地味だが、面白いポジションにある一族であると思う。
こういうことがあるから郷土史が面白くてならない。

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長野市の城【長沼城②】


信濃島津氏は平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将・島津忠久が祖と言われ、承久3年忠久が幕府の命で水内郡太田庄(現在の北信地域)地頭職に補任されたときに派生した一族である。
忠久は頼朝を主とする鎌倉幕府から重用されたため、全国各地の地頭職を歴任したといわれている。薩摩島津家も島津忠久から派生した一族であるとのことだ。信州の片田舎と、関ケ原や幕末期に覇を競った藩とが縁戚関係にあるということに、歴史の不思議な妙を感じる。たとえ、ごくか細いつながりであったとしても。
 
 
戦国時代、武田の北信濃侵攻に伴い上杉方であった島津氏はこの地から撤退。長沼城は武田の手によって再整備された。

千曲川から水路を引き入れ掘割を造り上げ、南北に約650m、東西に約500m総面積約34ヘクタールにも上る規模の城郭を構築、合戦の最前線基地として使用された。しかし武田の滅亡、織田の北信支配、上杉の領地へと変転を重ね、江戸期に入った直後の元和二年(1616年)長沼藩として独立、主城となった。そして元禄元年(1688年)四代目藩主の時代に故あって改易・廃城。荒れ果てた城郭は、その後数次にわたる千曲川の氾濫によって多くの部分が流失してしまったそうだ。

数奇な運命をたどった長沼城は現在、堤防整備のためほとんど原型をとどめず、遺構がわずかに残されているのみである。

長野市の城【長沼城①】


私の住んでいる長野県 善光寺平と呼ばれる地域は交通の要衝で、幾たびか合戦の場ともなった。と、先に書いた。そしてもっとも有名なものが

 
「川中島の合戦」
である。言わずとしれた武田信玄と上杉謙信の決戦。あしかけ12年のべ4回(本格的な合戦は2回らしい)北信のほぼ全域で戦闘を繰り広げた上に決着がつかなかった。という他所に例のない出来事のあった地域のためか、あちらこちらに城がある。

 
城、といっても後世の天守のあるようなものではなく、ごく小さな、山や河川など天然の要害を利用した、地域の防衛拠点といった性格の「城砦」とでも呼ぶべきものが北信濃全体に点在していたという。

 
数百ともいわれる古城たちはその大半が城郭を残すのみで往時を忍ばせるものはほとんど残っていない。本日ご紹介するのは中でも最大規模と分類される城だ。

 
「長沼城」

この史跡は長野市北東部の穂保という地域にある。
築城年代ははっきりしていない。おそらく室町時代に信濃島津氏の一族によって造られたものと推定されている。築城当初は館を堀と土塁で囲った簡単なものだったようだが。

長野市の城【横田城②】


①は治承4年以仁王の令旨によって挙兵した木曽義仲が平氏側である越後の城氏を打ち破り信州を制圧。その後越後・北陸を制覇する基盤となった合戦。
②は応永7年に信濃守護小笠原長秀が、村上氏・井上氏・高梨氏・仁科氏ら有力国人領主及びそれらと結んだ中小国人領主の連合軍と善光寺平南部で争った合戦。守護側が大敗し、以後も信濃国は中小の有力国人領主たちが割拠する時代が続くことになる。真田氏が歴史に登場した合戦と言われてもいる。
③は言わずと知れたあの合戦。

認知度からすれば③が最も高いが、日本史上への影響度といえば①であろう。②はまだ調査不足なので割愛する。
 
 
このみっつの合戦すべての舞台となった地がある。
 

「横田城址」

昨日・一昨日は休みだったので散歩がてら行ってみた。
長野市南部、篠ノ井とよばれる地の住宅街のど真ん中にこの城跡はある。説明板には昭和7年ころまで堀跡が確認されていたとのことだ。
往時は木曽義仲が、小笠原長秀が、もしかしたら山本勘助や多くの兵馬が行き交ったかもしれない地も、現在は二基の鳥居と小さな祠がさみしく祀られているだけだ。
 
つわものどもの夢のあと
 
ということばが心の奥底に染み入ってくるかのような気がした。

長野市の城【横田城①】


長野県は典型的な山国である。
そして高々とそびえたつ山脈の合間に“平”とよばれる小さな平野にへばりつくようにして人々が住み暮らしている。

“平”とは松本平(安曇平、近年は「安曇野」と呼ばれることが多い)、伊那平、佐久平そして私の住んでいる長野市が属する善光寺平の四か所に大別される。

それぞれの“平”にはそれぞれの歴史がありそれぞれドラマがあるのだが、ひとまずは善光寺平を中心に話を進める。
 
 
善光寺平は古来より交通の要衝(山岳部なので平野はすべて要衝となる)で人馬が頻繁に往来する地であった。したがって幾たびも合戦の舞台となっている。大きなところでは
 
①横田河原の合戦 治承5年(1181年)
②大塔の合戦   応永7年(1400年)
③川中島の合戦  天文22年(1553年)~永禄4年(1561年)

が知られている。

【カリギュラ~あるいは脂まみれ血走り中学生の生態について②】


1980年だから中学2年の時のことだったと思う。友人たちの間で、ちょっとした事件があった。なんだかすげ〜映画が公開されるらしいぜ。オトコもオンナも裸だらけで、最初から最後までやりっぱなしの、トンデモねー映画らしいぜ。などという情報が、まことしやかに入ってきた。それが

『カリギュラ(Caligula)』 1980年アメリカ・イタリア
監督:ティント・ブラス、ボブ・グッチョーネ、ジャンカルロ・ルイ
出演:マルカム・マクダウェル、ピーター・オトゥール、サー・ジョン・ギールガッド

ふぅん。マルカム・マクダウェルって『時計じかけのオレンジ』だよね(前年に観ていた)。ピーター・オトゥールも少し仕事選べよ。など、すでに小生意気なことが言える程度の映画ファンだったのだが、その反面、脂くさい中学生には違いない。なんとか観ることが出来ないか。と、ドキドキしていたものだ。

そしてロードショー。しかし、アメリカと違って修正だらけの公開となった日本では大したヒットもせず、あっという間に二番館行きとなった。半年ほど経ったのち、ホームグラウンドである〈飯田橋佳作座〉に来るというではないか。色めきたった中学生どもは、

『坊主頭だけど、堂々としていれば大丈夫』
『オヤジの背広を着ていけば』
『〇〇は老け顔だから、大丈夫じゃないか』

と、侃々諤々の大議論。再来年は受験だというのに、まったくコレだから、ロクな大人になれなかった訳だ。

いろいろあったが、ヘタレ中学生は結局のところその場は観ることは出来なかったのは、単なるヘタレであったため。現物と対峙あいたのは三十すぎてから、ビデオでゆっくり鑑賞とあいなった。
実在した三代目ローマ帝国皇帝を描いたこの作品は、巨大首切りマシンで切りまくられる人のアタマがキャベツにしか見えなかったり、アレやったりコレしたりはするものの、見事なほどドーってことのない映画であった、雑誌「ペントハウス」のボブ・グッチョーネ渾身の一作!なるコピーがあったのだが、これで渾身なのか?世評通り「トンデモねー映画」には違いなかった。
とはいえ、内容はともかく、この映画に出くわすたびに三十数年前の、あのピュアな日々が思い出され、胸がキュンっとなるような、なんとなく甘酸っぱいものが滲み出てくるような。そんな気にさせられるのだ。


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【飯田橋くらら劇場~あるいは脂まみれ血走り中学生の生態について①】


世の中、何が真面目かといって中学生男子ほど真面目な人種は存在しないと考える。何しろバカなのだ。ただ一つのことしか脳内にはあり得ない。何なのか?無論、エッチなことに決まっているではないか。

50過ぎた現在なら、「SEXはするものであって、観るものではない」(出典:筒井康隆)などと平気で言えてしまうが、35年前のうら若き時代に、そんな過激なことを言える訳がない。

隣のあの娘のあれがこれしてどうなって。
国語の先生のなにとこれがどうなって。

などという、経験もないくせに知識だけ生半可にあり、体力だけは売るほどある。そんな状態であったから、いつも血走った目でウロウロしていたような気がする。
そんなのお前だけだ。という声もあるかもしれない。しかし、私と友人たち、少なく見積もって30人以上はそんな状態であったと思うし、男子中学生など、古今東西似たようなものではないか。

そんな脂まみれ血走り中学生のすることといったら、父親が買ってくる週刊誌を盗み読んだり、勇気を奮ってエッチな本を買ってきたり。兄が備蓄しているビニ本かすめてきたり。
…勉強もせずにそんなことばかりやってたから、ロクな大人になっていないわけだが、しかしそんなことは数を重ねるうちに飽きてくるのだ。紙面でいくら痴態が繰り広げられようと、想像力には限界があり、もっと!もっと!もっとスゴいモノを!と、上のことを希求していくことは人として、いや成長過程まっさかりの人間として当然のことであることは言うまでもない。

現物を!
いや、現物でなくともせめて動いているものが欲しい観たい!しかし現代のようにAVなんて良いものがある訳がない。そもそも家庭用ビデオの普及はずっと後の事だ。では、どうなるかというと、エッチな映画を観に行こう!ということ以外にありえない。
当時(今もそうだが)有名であったソチラ系映画といえば日活ロマンポルノといえる。当時、唯一量産体制にあった日活は、後代の名優、名監督を排出した堂々たる映画会社であった。
ただ、日活は一般映画なのだ。入場料は高いしそもそもガードが固く劇場に入ることすらできない。となれば、どこに行くかというと、中小のいわゆる〈ピンク映画〉の劇場を狙って行くのだ。

当時住んでいた東京都新宿区で言えば〈飯田橋くらら劇場〉などという劇場には随分お世話になったものだ。先年、閉館してしまったそうだが、まことに個性的な小屋であった。この小屋は裏通りの子汚いビルの地下にあり、階段を降りきったところにある券売所は、なぜか白い紙で目貼りされ、手先だけでチケットのやりとりだけが出来るようになっている。つまりだれでも入ることが出来るのだ。スクリーンの脇に出入り口のある劇場(中に入る時、観客と目があってしまう)では、友人がオ○マに追いかけ回されたりと、いろいろ面白い体験があるのだが、ここでは割愛する。


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ジンジャーエールとソフトクリームそして「AKIRA」のある場所【本日のひと休み】④


足かけ8年もの歳月をかけたわりに6巻しかないのは、連載が断続的だったからだ。途中、大友克洋自身がアニメ製作に手をつけた、ということもあるが率直なところ、時間をかけすぎ、脳内革命を繰り返した末の混乱が凄まじい。
ストーリーもへったくれもない。連載当初、AKIRAの登場くらいまではよいのだが、その後はぐちゃぐちゃ。特に6巻など破壊に次ぐ破壊、対決に次ぐ対決の連続である。「気分はもう戦争(1982)」でみせた緻密な構成はかけらもない。
しかし、これが大友克洋が本当にやりたかったこと、であるとも思う。「童夢(1983)」で確立した『現実にあり得ないほどの破壊シーン』のみでの作品づくりを実現した、ということではないか。それに彼をして、アニメに傾倒せしめた理由があるのではないか。そのように考えた。

激しい破壊シーンの連続で、チカチカする眼球を休めながら最後まで読み通す。火照った大脳を冷却するのに、ソフトクリームの温度が心地よい。

短い時間ではあったが気にいった。
こちらではあまり使う機会はなかろうが、東京や他県に行った際などにはよいだろう。これから活用していきたい。