「池波正太郎の銀座日記(全)


同じ歴史好き、歴史文学好きでも司馬遼太郎と池波正太郎とで二分されるという。司馬は「考証」に裏打ちされた、彼の「史観」が展開が面白いのだし、池波の場合は歴史を通して「人生」であったり、「男の生きざま」を描くのがテーマであった。

ただ、ここで間違えてはいけないのが、2人ともあくまでも「作家」であったことだ。「歴史」は自らのテーマを描くためのツールなのであって、「史実」や「考証」は決して重要なポイントではないことだ。だから坂本龍馬の生涯は「竜馬がゆく」であり、長谷川平蔵は実在したが、火付盗賊改方はさほど派手でも、忙しくもなかった。

このあたり、勘違いして
「司馬遼太郎も池波正太郎も歴史を知らない!」
などというあわて者がいるので、常に注意喚起しておかねばならない。

私の場合、両氏の作はまんべんなく好きだ。そもそも息子の名は司馬から一字いただいて「遼(はるか)」とした。池波の「鬼平犯科帳」「兼客商売」は老後のために読まずに置いてあるほどだ。両氏とも語ることは山ほどあるのだが、今回は池波正太郎について。

池波は劇作に始まり、作家、映画評論家そして美食家という多岐にわたる活動を行い、ひとつひとつが「珠玉」としか表現しようのないほど見事なものばかりである。

それら全てがエッセンスとして楽しめるのが

池波正太郎の銀座日記(全)
である。彼がこよなく愛した街、常に通い詰めた街 銀座での出来事記した日記をまとめたものだ。仕事、書物、映画、食などがごく短く、簡潔に記述される。
“フィリップ・ノワレが、パリのある警察署の刑事になって主演する。賄賂、ピンハネ、モミ消しなど、職権を利用した悪徳?を重ねながら生きて行く、こよ初老刑事の肥った躰からただようペーソスとユーモアが何ともいえぬ、よい味だった。"
じつにシンプル、さらりとした文章に魅せられてしまい。この調子でやられれば、少々のこと悪口を言われても許されてしまうだろう。
"「迷走地図」を観る。深味はないが、野村監督のテムポ快調。それに久しぶりの勝新太郎の政治ボス。すばらしいマスクだ。演技もこの役なら破綻はない。"
このように並べていくと、自分の文章が誰の影響を受けているのが判明してしまうが、始めてしまったものは仕方がない。
"私がロイド・ノーランを初めて観たのは、まだ少年のころで、ジェームズ・キャグニー主演の「Gメン」の端役に出ていたのを観て、子供ごころにも
(これは、きっと、いい役者になる)
と、おもった。果たして、彼はキング・ヴィダー監督の「テキサス決死隊」の仇で、一躍、名をあげたのだった……と、こんなことを書いてみても、ひとりよがりになるだけだろう。もう、やめよう。"
映画だけではない。
池波といった「食」を外しては片手どころか、両手両足を落としてしまったようなものだろう。
"「煉瓦亭」へ入り、ハイボール二杯、ポーク・カツレツに御飯。私には何といっても、この店のカツレツが、いちばんうまい。
とんかつだのカツレツだのはそれぞれにルーツがあって、
「それは、ぬきさしならないものです」
いつか、私の友人がそういったことがある。そうかもしれない。"
「ぬきさしならないもの」
などというフレーズがよく出てくるものだ。こういうところに、彼の才能と並々ならぬセンスを感じるのだ。
"夕飯は、焼豆腐の煮たのとワサビの茎と、鯛の刺身で冷酒一合半。
飯は、半分残した鯛の刺身で即席の鯛茶漬にする。鯛の漬汁は、卓上の酒、味の素、ワサビ、ミリンなどで、自分が適当にする。"
いかがであろう。
これこそまさに「かっこいい文章」といえる。聞くところによると、池波正太郎はとてつもなく気難しい方であったとのよし。さもあらん、自己を律し、人にも自分にも厳しく相対することが出来てこその「かっこよさ」であると思う。

あゝ、おれには永久に書けるわけがないなァ。


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