「憲法くん」松元ヒロのLIVEから


近所の書店が新装オープンした。
併設されていたレンタルDVD店が撤退し、その場所にカフェを設置、その他書店スペースも大きく改装を加えたとのことだ。カフェはともかく、新しい本屋と聞いて黙ってはいられない。

到着したのは、19:00少し前だったが、そこは新装オープンである。駐車場も店内もかなりな混雑である。以前と比較して、文具スペースを拡大し、店舗中央に配したのがよいと思う。書店側もほとんど面積は変わっていないのではないか。ほどよく広く、じつに気持ちよい。

ただ、気になったのは文庫本のカテゴライズである。この書店、今に始まったことではないが、あまりにも分かりづらくてならない。
ジャンル別兼著者別というまこと不可思議なもので、ある作品を探すのに、著者を探すでも出版社を見つけるでもなくジャンルを特定しなければならない。筒井康隆はSFで当然だが、小林信彦を推理小説にカテゴライズするのはアナクロだし乱暴な所業であると思う。

日常的に本に接していない人、特定ジャンルを好む人にとってはよいのかもしれないが、やはり使い勝手が悪いと思う。
当たり前だが、「カテゴライズ」とは物事をわかりやすくするための「手段」なのである。
しかし、その「手段」も使い方を誤ると、ことを複雑化させ、得体の知れない方向へと引きずり回すこととなる。

回りくどいし、面倒なのではっきり書いてしまおう。

人間を「右」「左」でカテゴライズすることほど意味のないことはない

この場合の「右」「左」とは政治的なスタンスを指す。すなわち「右」は「保守」を、「左」は「革新」を意味するという、あれである。

日本の場合の「右」「左」はかなりいびつで、他国とは違いすっきりわかりやすいものではないが、ここでは上記のように、あくまでも一般的なイメージを以って話を進めることとする。

私もどちらかというと、「左」方面の人間である。プロレタリアートの父を持ち、バリバリの革新都政の時代に育ち、戦後教育を受け、子どものころは「赤旗まつり」に毎年通い、赤旗(日曜版だが)を購読している。とはいえ、「資本論」は三行しか読んでいないし、「インターナショナル」も歌えないが、ある側面から見れば、私など完全な「アカ」となるであろう。

ところが、誠に残念なことに私は共産党に興味はあるが好きではない。むしろ率先して嫌いな方がといえる。彼らの「理想」はよい。戦争を嫌い、殺戮兵器を廃絶して行こうという主張には大いに賛同する。しかし、彼らの「迷走」とほぼ同義な歴史の前においては、はなはだ空疎なものとしか受け取れない。

自民党はもっと嫌いだ。
なにを今さら「政治改革」だ。お前らの悪業を忘れたとは言わせない。炭管疑獄、九頭竜川ダム事件、ロッキード事件、ダグラス・グラマン事件、リクルート事件、住銀事件、イトマン事件など数えきれないほどの汚職を行ったのは誰だ。
岸信介が満州で何をしたかを知らないわけがないだろう。多くの人々から財産を奪い、生活の基盤を失いせしめたことを忘れてはならない。かの国からの批判については、疑義または言われすぎもあるが、彼らをそこまで感情的にさせた経緯も理由も、まったくないわけではないのだ。
また、国民の税金を湯水のように使い、公共投資と称して山中の誰も使わない道路を作り、必要のない橋を作り、誰の益にもならないダムを作り続け、現在の財政破綻を招いたのは、間違いなく自民党の失政によるものだ。かような歴史があるに関わらず、今になってきれいごとを並べたてるものどもには、大きな声で「ちゃんちゃらおかしい」と言い放つべきなのだ。

ではどちらなのだ。
と、言われる向きもあろう。双方を罵倒できるほど、お前には高邁な主張があるのか。
この際だから、この場で宣言しておこう。

私は「右」でも「左」でもない。

その場その時の気持ちや状況により、どちらにでも振れうる、ということだ。
世間一般では「言行一致」が尊ばれるが、何も政治的なスタンスで全てを統一しなければならない法はない。誰しも絶対に変えてはならない、守らねばならないものを持っている。そして同時に、変わっていく勇気を持たねば、生きていくことすらままならない、人間とは、二者択一で割り切れるほど単純な動物ではないのだ。

先だって、お誘いをいただいてあるLIVEを観にいってきた。

松元ヒロ
という、ピン芸人のことは今回初めて知った。
井上ひさしに絶賛され、立川談志に支持されたという割にお茶の間に知られていないのは、その芸風にある。すなわち彼の持ちネタは「政治風刺」なのだ。
「もりかけ」をくさし、籠池夫妻を安倍首相と昭恵夫人を思い切りからかい倒す。時としてかなりキツい、ブラックな手法だが、それでいて最後はにやりとさせられるという、極めてハイブラウな芸であるのと同時に、誠に正しい意見の開陳であると考える。

誰にでも意見や思想…、とまではいかずとも考え方を持っている。生きてきた中での蓄積、あるいは培ってきたものは必ずあるだろう。そして、それらを語る権利もある。

韓国人を非難するも自由である。北朝鮮のミサイルは日本に向けて撃っていないとするのも自由だ。野党の女性政治家をからかおうと、株式会社ムサシの陰謀を暴こうと、選挙フェスで三宅洋平とともに大騒ぎしようとすべてが自由だ。マナーを守れば、強要さえしなければ、迷惑さえかけなければ、どこでどのような形式をとろうとも開陳することは出来るのだ。

しかし、「意見」である以上は対象に届かせることが義務づけられる。それが「批判」であればなおさらだ。この精神がないものは「意見」ではなく、単に無責任な「言いっ放し」にすぎない。松元氏がハイブラウだというのは、正にこの点にある。たとえ嫌なこと、耳の痛いこと、あるいは腹の立つことであっても彼のユーモアの前では、微笑まざるを得ないだろう。苦笑するものもいるだろう。これが松元ヒロの本領である。そこいらにいる「ネット右翼」「ネット左翼」のヘイトスピーカーどもは、一度でも彼の芸を観るべきだ。

松元氏の十八番に、「憲法くん」がある。

「日本国憲法」を擬人化した彼が、憲法の精神と現状を語る、という一人芝居である。
このようなネタである以上、明らかな「護憲派」であるが、彼の主張はひと味違う。護憲・改憲の別なく、日本国憲法といえばまず9条を前提にしがちだが、その前にまず考えるべきことがあるだろう、という。

前文と百三の条文で構成された日本国憲法は、
「国民主権」
「基本的人権の尊重」
「平和主義」
の三点を理想として掲げている。

憲法とはそもそも何か。
憲法とは、国の力を制限するための、国民から国への命令書である。国民と国との関係を対等にするためのものである。国を治めるものたちが、自分勝手なことをしないように、歯止めをかけるものなのだ。

しかし、今この現状を変えようという動きがある。96条改正規定がある以上、動きそのものは悪いことではない。しかし、なぜ変えなければならないのか。
「今の憲法は現実にあわない」
からだという。
先の大戦で国土を焼かれ、家族を、友が死に、家や仕事、生活の基盤を奪われ、すべてを失ったのではないか。こんなに恐ろしく悲しいことが二度とあってはならない、という思いから生まれた「理想」だったのではないか。理想と現実が違っていたら、現実を理想に近づけるよう努力するものではないのか。
この国は、この憲法は戦後70年間、たった一度も、戦争という名前のついたおこないで、人を殺したことも、人に殺されたこともない。そのことは、誇りに思うべきであろう。

文章にすると、極めて硬いものとなってしまうが、LIVEでは松元氏の笑顔とユーモラスな語り口で、穏やかに、心の奥底まで染み込んでくる。

打ちのめされた。
あらかじめ言っておくが、私は「改憲派」すなわち、憲法を変えるべきと思っている。この70年間、戦争がなかったのは地勢的、あるいは政治的な状況によるためで「日本国憲法」が作用したからではない。そして現状では、家族を守ることすらできない。そのような想いから発したものだ。わが身のことだけを心配すればよい、という立場ではない以上、これは貫くべきことであるとも考えている。

しかし、打ちのめされてしまったのだ。

それだけでよいのか。
果たして、単純に変えるだけでよいのか。9条を改正し、自衛隊を軍隊とすればそれでよいのか。かの国に押し入り、蹂躙しつくせば事足りるのか。

いや、
仮に、それで事足りるのだ、すべてがきれいに片づくのだ。としてみよう。

では、あなたに人が殺せるのか。
あなたでなくとも、子どもたちに、友人たちに、さぁ行ってこい殺してこいと言えるのか。見知ったものでなくともよい。軍人たちに、これがお前たちの仕事だ。武器を持て闘え、焼き払ってこい。そのように言えるのか。

私には出来ない。
腰抜けと言われようと、論理的思考が出来ないと謗られようと出来ないものは出来ない。いや、そんな冷徹なことを出来るものがどこにいるのか。

抑止力を理解していない、と批判されるかもしれない。極論とも言われるかもしれないが、軍隊を持つということは、反面そのようなジレンマを持つということでもある。少なくとも、ある程度以上の「覚悟」を持つ必要があるのだ。

最後に「憲法くん」はいう。

でも、わたしをどうするかは、みなさんが決めることです。
わたしは、みなさんのわたし、なんですから。
わたしをみなさんに託しましたよ。

単純に変える、変えない、という議論ではない。「右」「左」でもない、もっと深く、本質的な部分をじっくりと考えていく時がきたと、つくづく感じている。


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