「旅路の果て」叔母と過ごした日々について①


今年で叔母が逝って8年になる。
叔母といっても義父の姉となるので、表記としては義叔母になるのかもしれないが、面倒であるしそもそも、そんな言葉があるか定かではないのでこれで通すこととする。
92歳になる数ヶ月前に亡くなった叔母は教員として、家族を支え、多くの児童(現在はおじいちゃんおばあちゃん)を育て上げることに捧げた生涯は、一部の関係者から〈伝説の〉と称されるほどのものであったそうだ。特に満州時代の業績は、いずれ何らかのかたちでまとめたい。とは思っているものの、いつになるかはまったく予想がつかない。
私と叔母とは、その最晩年である五年間を共に過ごした。叔母が八十五の春に心臓を患い、年寄りを二人にしておくわけにいかないと同居をすることになったからである。

誰でも同じだとは思うのだが、同居にあたって問題となるのはお互いの意志の疎通、すなわちコミュニケーションをいかに、有効にとるかにかかっている。子どもではあるまいし、何十年も生きてきた者同士が、息を合わせて生活していくことは、なかなか大変な事業なのだ。



伴侶も子どもも持たず、仕事に勤しみ、引退後は全国にちらばった教え子を訪ね歩くことが趣味、というよりほとんど〈業〉であった叔母にはほとほと困らされた。
曰く『東京で同級会があるから行かなければ』
曰く『約束だから奈良まで』
曰く『バスに乗せてくれれば、岡山までカンタンに行ける』
そもそも、日常的に車椅子やウォーカーでなんとか生活している者が、どうやって岡山までいくというのか。今後のこともあるので、家内と二人、叔母に談判した時のことは今でも忘れられない。

『叔母ちゃんの旅行好きはよく知っているし、生きがいなのもよく分かっている。でも、今の状態で行けるわけがない。身体をもっと悪くしたら、元も子もない。だからもう遠出は行かせてあげられない。一人でなんて以てのほか。そのかわり、長野市近辺だったらオレが責任もって連れて行くから』
黙って頷いた叔母の、老人特有の無表情の瞳の奥に、悲しげな色が浮かんだように見えたのは、気のせいであったろうか




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