長野市の城【長沼城②】


信濃島津氏は平安時代末期から鎌倉時代にかけての武将・島津忠久が祖と言われ、承久3年忠久が幕府の命で水内郡太田庄(現在の北信地域)地頭職に補任されたときに派生した一族である。
忠久は頼朝を主とする鎌倉幕府から重用されたため、全国各地の地頭職を歴任したといわれている。薩摩島津家も島津忠久から派生した一族であるとのことだ。信州の片田舎と、関ケ原や幕末期に覇を競った藩とが縁戚関係にあるということに、歴史の不思議な妙を感じる。たとえ、ごくか細いつながりであったとしても。
 
 
戦国時代、武田の北信濃侵攻に伴い上杉方であった島津氏はこの地から撤退。長沼城は武田の手によって再整備された。


千曲川から水路を引き入れ掘割を造り上げ、南北に約650m、東西に約500m総面積約34ヘクタールにも上る規模の城郭を構築、合戦の最前線基地として使用された。しかし武田の滅亡、織田の北信支配、上杉の領地へと変転を重ね、江戸期に入った直後の元和二年(1616年)長沼藩として独立、主城となった。そして元禄元年(1688年)四代目藩主の時代に故あって改易・廃城。荒れ果てた城郭は、その後数次にわたる千曲川の氾濫によって多くの部分が流失してしまったそうだ。


数奇な運命をたどった長沼城は現在、堤防整備のためほとんど原型をとどめず、遺構がわずかに残されているのみである。



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