あらら?冒険記 木曽路施餓鬼法要編


木曾の道

木曾路はすべて山の中である。あるところは岨づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた。

とは、島崎藤村「夜明け前」の冒頭部分である。描かれているのは幕末期、執筆されたのは昭和初年であるが、なに現代もさほどには変わらない。木曾川ぞいをうねうねと蛇行しながら行く道は、まさしく「隘路」そのものである。しかもほとんど一本道なので、災害などで土砂崩れでも起ころうものなら、木曾路はあっという間に陸の孤島と化す。さすがに近年は、改修工事が進み、対岸に移し拡張したり、トンネルを掘ったりと使い勝手が良くなった。まだまだ一部区間ではあるものの、今後はどんどん良くなっていくだろう。…とは言うものの、今度は真っ直ぐ道となった木曾路はそれらしく感じることが出来ず、なんとなく面白くない。まったく身勝手なものだ。

木曽とわが家

木曾上松は家内の母と、家内自身の出身地である。
大正の終わりごろ、縁あって岐阜から祖父母が移り住み、昭和の初め、それこそ藤村が「夜明け前」連載中くらいの時期に義母が生まれ、戦後義父と出会い、家内が生まれ、という段取りだったのだが、義父の転勤で他出してしまった。だから家内は木曾での生活をほとんど覚えていないという。
一家はその後諏訪、中野、飯山そして長野市へと移り、家内は家内で諏訪、東京、松本、長野市と転々としたため、木曾に戻る事はなかったが、関係が切れることはない。遠縁はいるし、そもそも菩提寺がある。

一時、年に一度、お盆には家族中で木曾に詣るのが習慣だった。朝早く起きだし、弁当を作りわが家と義姉家族、義父、叔母と総出で出かけ、まだ小さかった子どもたちを遊ばせながら往復すると、ちょうどいい行楽代わりとなる。
10年ほど前に、実家を建て替え同居を始めたりと、区切り事があったので、せっかくだからお墓も、という事で長野市へ移した。これが基で木曾へ出向くことが激減してしまうこととなった。墓参りで1日かけての往復も、悪くはないのだが、やはり億劫事でもある。それに叔母・義父ともに高齢となり、体調のことを考えると、やはり移した方がよいだろうと、決断した次第である。
そして、数年を経て両名とも亡くなり、これは本格的に縁が切れてしまうかな。ま、それはそれで仕方がない。というくらいに思っていた木曾にまた足を向けるようになったのは、昨年なんとなく参加した、菩提寺の「施餓鬼法要」の様子がじつにほんのりと、よい雰囲気だったからだ。

施餓鬼法要

「施餓鬼法要」とは、

餓鬼道で苦しむ衆生に食事を施して供養することで、またそのような法会を指す。特定の先祖への供養ではなく、広く一切の諸精霊に対して修される。(中略)日本では先祖への追善として、盂蘭盆会に行われることが多い。

面倒だからWikipediaから引用してしまったが、不幸な亡くなり方をしたものを供養することで、お盆の嚆矢とする、ということか。調べが至らず、いい加減な解釈で恐縮だが、この行事がなんとも言えずによいのだ。

午前の仕事が休めない、という家内の帰宅を待ち、出発したのは13:30を回っていたが、急ぐ旅ではない。施餓鬼法要は17:00からだし、他に行くところもない。ゆっくり行って今日中に帰宅できればよいのだ。長野インターから高速道路に乗り塩尻まで。そこから中山道を通り上松町まで、というルートはいつも通りである。権兵衛峠が整備されてからは、伊那まわりで木曾に至る、というルートも出来たのだが、時間的にあまり変わらないのと、高速道路料金が高くなる、という理由で一度使ったきりだ。ゆっくりゆっくり来ても、到着したのは16:00を少し回ったくらいであった。それでも少し早いが、わが家にはもう一つ恒例の行事がある。それは五平餅を食べることだ。

五平餅

五平餅はご存知の通り、半搗きしたご飯(半ごろしという地域もある)を串うちし、成形したものにタレをつけて焼き上げたものである。

中部地方の山間部(長野県木曽・伊那地方、岐阜県東濃・飛騨地方、富山県南部、愛知県奥三河地方、静岡県北遠・駿河地方や山梨県)に伝わる郷土料理。[Wikipediaより]

というが、小判型だったり、団子型だったり。はたまた串うちせずにおにぎり状だったり。タレも醤油ベースだったり味噌ベースだったり、クルミが入ったり、ゴマもしくはエゴマを使ったりと各地で様々なバリエーションがある。名物・名産というより、人びとの生活に深く根ざした食品ととらえるべきであろう。
また、本のタイトルNHK連続テレビ小説「半分、青い」に登場してからというもの、売り上げが急増してしたのだとか。とはいえ、あのドラマは岐阜が舞台だから、木曾とは関係がないが。

【お店のデータ】
食堂 中村
場所 長野県木曽郡上松町寝覚ノ床入口
電話 0264-52-2183
駐車場 あり

こちらは、わが家御用達、…という事でもないが、義父の時代から使わせてもらっている店である。率直なところ、どうということのない、昔ながらの普通のそば屋であるが、この五平餅を食べないとどうも木曾に来た気がしない。先に話したように、五平餅は生活に根ざした食品だから、どこのものが最高に美味い!ということはないと思うのだが、ここの味わいがもっとも口にあっている。何十年ものつきあい、ということもあるからだろうが。

「五平餅セット」

長径20センチ、短径5センチほどの五平餅二本にコーヒーがつく。昼どきならそば、サラダとの組み合わせである「五平餅定食」を食べるのだが、夕食に差し支えるのでこちらにする。
半搗き、半ごろしというが、要するにご飯である。だから、これ一つでもかなりな食べごたえとなる。味噌をベースとしたタレも、砂糖とクルミなどの木の実とが加わって、とても複雑な味わいである。美味い、安定の味わいといってよいだろう。

美味しい五平餅を食べつくし、ようやく本番である。わが家の菩提寺である臨川寺は、そば屋のすぐ隣、歩いて数分もかからない。ここは、木曽川に面して建っており、木曾最大の景勝地である「寝覚めの床」の直上に位置する。というか、下まで降りたければ、境内を通ってからでないと行けないようになっている。

「寝覚めの床」

木曾山系は、もともと花崗岩によって構成された地形である。数万年におよぶ木曽川の流れによって、花崗岩が侵食され、できた自然地形で、巨大な岩が様々な姿を見せている。この名は

浦島太郎は竜宮城から玉手箱と弁財天像と万宝神書をもらって帰り、日本諸国を遍歴したのち、木曽川の風景の美しい里にたどり着いた。ここであるいは釣りを楽しみ、霊薬を売るなどして長年暮らしていたが、あるとき里人に竜宮の話をするうち玉手箱を開けてしまい、齢300年の老人と化してしまった。天慶元年(938年)この地から姿を消した。 [Wikipedia]より
また巷説によれば、浦島太郎には、今までの出来事がまるで「夢」であったかのように思われ、目が覚めたかのように思われた。このことから、この里を「寝覚め」、岩が床のようであったことから「床」、すなわち「寝覚の床」と呼ぶようになったという [Wikipedia]より

との事だ。
そもそも臨川寺の建立由来は「寝覚浦嶋寺略縁起」なる書物に記載されているそうだし、併設されている「宝物殿」と呼ばれる施設には、「浦島太郎の釣竿」が展示されている。

なお、宝物殿には様々な古い生活道具や昔の教科書、明治天皇の御真影などが展示されている。興味深いのは「吉良流作法書」とされる資料である。吉良といえば「忠臣蔵」(という表現は間違いだそうだが、ここではこれで統一する)に登場する、吉良上野介義央で有名だ。もともと公家侍の家系で、勅使饗応指南役だったのでこのようなマニュアルを用意されていたという。書物だけではなく、着付けや膳のつくりなど和紙できれいに作り上げられている。現代でも、十分通用しそうなものである。「忠臣蔵」以降、吉良流は廃れ小笠原流に取って変わる。まことに歴史は非常なものである。

こんなマニアックなものがある宝物殿は、歴史好きにとってはまさに宝物のヤマである。お好みの方はぜひお越しください。

そして本番

さて、いよいよ施餓鬼法要である。
率直なところ、何ということのない法事である。日暮れ少し前に、境内に設置された大きな屋根つきのテラス(住職は「休憩所」といっていた)で、三々五々集まってきた、大勢の檀家衆の前で、住職の他いく人かの僧侶が読経する。それだけの事なのだが、次第に暮れてゆく日差しの中、読経の声、人びとのさざめきがうまくブレンドされ、耳ざわりよく心地よいのだ。

ご近所の、というより同じコミュニティの仲良し同士が、先祖を敬い、皆がみな、お互いをリスペクトしあい、無病息災を祈る。人としての心の中にある、素直な気持ちが溢れ出てきているようで、なんとも言えずによいのだ。宗教行事、というほど大層なものではない。日常にある、ごく当たり前のこと、という感じなのだ。正直を言うと、今まであまり出会ったことがない雰囲気なのだ。
「田舎だからね」
と、親戚は言う。たしかに、東京の菩提寺でもなかったように思う。とはいえ、「施餓鬼法要」などごく当たり前にだと思うし、大々的なイベントとして行っていないだけではないか。そもそも、こちらの信仰心も薄く、いちおう天理教に入信しているのだが、何十年も行っていない。…もう一つ、ある宗教団体に加入しているはずだが、名前だけで、まったく関係がない。どこかは秘密だが。
そんなわけで、もともと薄い信仰心、縁のある寺でもこんな行事はなかった。というわけでほぼ初体験、それがとても心地よく、気に入ってしまったのだ。

読経が終わり、全員が焼香とお供米と水を捧げ、塔婆をもらって帰宅する。わが家の分を探したら見当たらない。住職に訊ねたら
「ああ忘れてた」
と言われて、その場で新しく書き上げてもらう。数が多いから仕方がない。こんな事があるから、余計と楽しいのだ。…また来年。


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