伊那市「志をじ」ソースかつ丼


志をじ
場所 長野県伊那市西春近2701-2 [地図はこちら
電話 0265-98-7527
駐車場 あり

はじめに

こう見えても東京の出身だ。
といって特にいばるつもりもないのだが、ある方から「東京都新宿区生まれだなんて、大それた経歴だ」と言われたことがある。何をばかなことを。東京をはじめとした都心部は地価も高い家賃も物価も高いので定住するにここ以上安定性のない場所はない。独り身ならまだしも、所帯を持った時点で住んではいられなくなり、移住せざるを得なくなる。要するに東京は地方出身の移住者だらけ、という事となる。現にわが家だって父母こそ東京生まれだが、その前は千葉・秋田・台湾からやってきた田舎者だ。

そんなエクセレントな経歴をもつ私だが、ひとつだけ”東京の”と冠してもよい常識をもつ。それは

「かつ丼って玉子とじだよね?」
とんかつと玉ねぎをしょう油味の割り下で煮込んで玉子でとじて、熱々ご飯にのせて出来上がり、という料理を「かつ丼」と呼ぶのではないか。たまぁに玉子なしの、割り下でさっと煮込んだだけのものと出くわすことはあったが、それ以外のものは想像したこともなかった。”東京の”といったが、経験した範囲では関東一円および東北地方にまで”玉子とじ”がかつ丼のスタンダードと思っていた。

ソースかつ丼なる存在をしったのは、20歳を過ぎてからではなかったか。丼メシにキャベツと煮ていないかつがのってソース味だ?なんでそんな品のないものを喰わねばならぬのだ。普通のとんかつ定食を食べればよいではないか。

ちゃんとしたソースかつ丼との出会いは、松本に越してきてからだ。あぁこれはとんかつ定食をワンドンブリ化しただけのものではない。これはこれで、しっかりとジャンル化されたもの、いや文化であると確信する。やはり接しなければならないのは本物である。

「志をじ」

天竜川にへばりつくようにして展開する伊那市街の、南側末端に近いところにこちらはある。古めの小さな喫茶店という風情だが、中は広々としている。ぴったり昼どきで、お客さんでごった返していたが、ちょうどテーブル席があき、4人がけをひとりで占拠できた。

「ソースかつ丼 大」1500円

“ジャンボです…覚悟してオーダーを!”とい惹起に接すれば注文しないわけにいくまい。おれはジャンボが好きなのだ。
でかい丼に分厚いかつが3枚、どん!どん!どん!の山積みされている。これひとつで十分、「とんかつ定食」が成立するであろうサイズだ。

箸で持ち上げるのが困難なほどの重さ、といえば大げさだが、それでも一瞬え?と思うほどの重量だ。甘いソースはびちゃびちゃしているわけでもなく、といってしっかりと染み込んでいて美味い。丼上からは確認できないが、かつの下にはキャベツが敷き込まれている。かつと重量と、ご飯の温度でほどよくしなしなに。これもまたよろしい事態である。

まとめ

山積みをなんとか片付けて外へ。天竜川の川面から吹く風が心地よい。まだまだ南信には美味いソースかつ丼、いやそれだけではなく、もっと美味いものがあるはずだ。極めに来なければ。

長野市「とんかつ健」ジャンボ好きの…


とんかつ健
場所 長野県長野市箱清水2-12-21 [地図はこちら]
電話 026-234-1404

ジャンボが大好きなのである。
歳の離れた末弟、三男坊という甘やかされた育った関係でとにかく「全部といっぱい」なるフレーズが好きなのだ。50をとうに過ぎた身の上だが、大盛、特盛、デカ盛、メガ盛、スーパー、ジャンボなどという形容詞がアタマについているだけで、身が震えるほど嬉しくなってしまう。そして今日もジャンボを追求するのである。

ジャンボコロッケ定食」800円

いつもはジャンボとんかつなのだが、少し趣きを変えてみた。デカい。大皿の2/3が茶の色で覆われているのである。長径にして20㎝はあるだろうか。

眺めるだけで、ウキウキとしてしまうサイズである。「コロッケにはソースをたっぷり」といったのは池波正太郎だったか。いや、東海林さだおか、忘れてしまったが先達の教え通り、だばだばソースで頂くのだ。美味い。じゃがいもの甘さととんかつソースの相性がとてつもなくよろし過ぎて箸が止まらない。まことに豊穣なひと時を与えてくれた、大地の神とこちらのマスターに心よりの感謝を申し上げる。


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長野市「とんかつ健」立てるは肉の…


【お店のデータ】
とんかつ健
場所 長野県長野市箱清水2-12-21 [地図はこちら
電話 026-234-1404
駐車場 あり

明治は遠くに…

明治45年は西暦でいえば1911年。したがって、100年以上が経過したこととなる。社会体制も生活習慣も、話し言葉も食べるものも現在とはずいぶんと違ってしまったようだ。思えば遠くに来たものだ。などと観て来たかのように語ってしまうが、とはいえそこは同じ日本人、いや、現代のわれわれの基になだけあって、心情的な部分ではあまり変わってはいないようだ。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

とは夏目漱石「草枕」の冒頭部分である。
理屈をいってもだめ、情にほだされても、我をはってもよろしくない。であれば、気にせずわが身のことたけ考えていれば良いのだが、つい周囲をみてしまう。何事も上手くいかないものだ。こんな文章を読んでいると、明治の文豪にも親近感が湧いてくるというものだ。

あゝ日本人

近年、「忖度」なる言葉が流行したがあんなものは身近なそこここに転がっていることだ。要するに「空気を読んで上手くやれ」という言葉だ。何を今さら、騒ぎ立てるようなことではない。「圭角(かど)」さえ立てなければ問題ない、と考える。
そんな事だから失敗もする。何度やらかしちまった事か。あんな時こんな時なってなかったよなぁ。なんてことはしょっちゅうだ。そんな事は私だけではなく、どこの誰にでもある事だし、日本史にも「やらかしちまった事件」がたくさんある。

司馬遼太郎の説

司馬遼太郎によれば、こういった日本人的性質は元からある「村社会」の名残と、徳川家康と彼が作り上げた幕藩体制にあるという。そういった根の深さゆえ、簡単には覆すことが出来ない。誠に腹立たしいばかりであるが、よそ様も似たようなものだろう圭角立てず、腹も立たさず静々と参ろうではないか。立てて良いのはとんかつの角ばかりであるべきなのだ。

ジャンボ

幼少のみぎりより「ジャンボ」が好きなのだ。通常よりも大きい、とか分厚い、といった表現に心惹かれて幾星霜を費やしたことか。母親から
「お前は全部といっぱい、大きいたっぷりが好きだったから」
と言われるが、それはまったく正解なのである。生まれついての欲張り人間。一般的な意味において50を過ぎて、いささか恥ずかしくなくもないのだが、こればかりは仕方がない。こうなると、「アイデンティティの領域」であるといって過言ではない。ジャンボ・分厚さあっての自分であると言い切って支障はない。周囲からは健康面を注意され、腹回りのあんまりさを笑われるばかりだが、メニューを前にするとそちらに目が行ってしまう。

「とんかつ健」

善光寺の北側、箱清水の地にあるこちらは、「とんかつ」とあるように基本的にとんかつ屋で、メニューも揚げ物が中心となっているが、店内のあちらこちらに短冊状の品書きがあるところをみると、近隣住民の居酒屋、コミュニティとして機能しているようだ。もちろん車だから飲めるわけがないので、おつまみメニューはスルーとなる。あゝ腹がへった。もちろん注文はアレ一択である。

「ジャンボとんかつ定食」

コロッケ、エビフライとならぶ「ジャンボシリーズ」の一廓である。どれもこれも大好きなメニューだが、やはり分厚さ、迫力度からしてこれしかないと確信する。厚さは1.5〜2センチ、といったところであろうか。クキッとした直角が、緊張感を演出する。断面をながめるだけで、多幸感が溢れてくるのは私だけではないだろう。なんのかんの言いながら、肉は「質」以前に「厚さ」あってのものなのである。

揚げたてかつ分厚いとんかつには塩、と言われている。たしかに美味い、否定するつもりはまったくない。しかし、とんかつはソースあってのものなのだ。じゃぶじゃぶソースで、男らしく喰らうのが一番だ。

and others…

しかし、ごはんを控えるのを忘れない。食べすぎであることには間違いないのだ。とはいえ、炊きたて熱々のごはんほど美味いものはない。楚々とした冷奴には、北信らしく洋ガラシが添えられている。ツンとした辛味はかえって爽やかな印象を受ける。大根とキュウリのオーソドックスな漬け物も、とんかつの迫力を支える、大事な脇役である。


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